重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。
こうして見ると、自分の頭で考える思索家と博覧強記の愛書家を、その話しぶりに接するだけで容易に見分けられるのは不思議ではない。自分の頭で考える思索家は、真剣で、直接的で根源的なものを取り扱うという特徴があり、自分の考えや表現をすべてみずから検証してゆく。これに対して博覧強記の愛書家は、なにもかも二番煎じで、使い古された概念、古物商で買い集めたがらくたにすぎず、複製品をまた複製したかのように、どんよりと色あせている。型どおりの陳腐な言い回しや、はやりの流行語から成る彼の文体は、他国の硬貨ばかり流通している小国を思わせる。すなわち自分の力ではなにも造り出せないのだ
私が今まで読んだ本はブログに載せていないのも合わせると1,000冊を超えているのは確かです。
単なる知的好奇心を満たすことが目的の大半ではあるのですが、読書もよくよく注意しないと、自分の考えなしに他人の考えを借りているにすぎない人物に陥る危険があります。
確かに他人の言葉をそのまま流用しているときと、自分の考えとして自分の言葉で説明できるとでは大きな隔たりがあると思っています。
無意識的に本をたくさん読んでいると、何か頭が良くなったような感覚に陥るのですがアウトプット(行動や行動による成果物)に変化がない限りは、本の内容を自分なりに考察することができていない可能性が高いです。
この本を読む前からですが、私は最近読む本や読書習慣が変わってきました。
・古典を読み始めた(最近はアダム・スミス)≒流行りの本には手を出さなくなった
・1冊の本を何回も読むようになった
・ブログに自分なりの考察も書くようになった
・時間制限を設けることで集中して書くようになった
たくさんの本を読むよりも、いい本をしっかりと読みたい思いが強くなってきたからもしれません。
話は少し変わって、一緒に仕事をしている先輩からインスパイアを受けています。
先輩の何がすごいかというと、仕事上ででくる「なぜ?」に対する考察が私よりも何段も深いと感じるからです。
自分もなぜ?と考える習慣は持っている認識でしたが、先輩の思考の深さを知ると自分の未熟さを再認識しました。
日常的になぜ?と思うこと。そして、なぜに対する自分なりの仮説を考える習慣を普段からしていないと到達できない領域があると思っていて、先輩はまさに雲の上の存在です。
この話と読書を結びつけてみると、読書はなぜ?という疑問と自分なりの仮説を持ちながら本を読むと内容理解が早まることはもちろん、他人の考えを鵜呑みにならないことができると思いました。
ショーペンハウアーの読書に対する言葉には毒がありますが、毒があるからこそ読者に強烈に刺さるんだと思います。
読書習慣を見直したい人にはオススメです。