最近は久しく本を読めていなかったです。やはり本を読む時間を確保するのは重要ですね。親鸞に興味があったので読んでみました。親鸞の経歴は以下の通りです。
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親鸞(1173年-1262年)は、日本の鎌倉時代に活躍した浄土真宗の開祖として知られる仏教僧侶です。彼の生涯と教えは、仏教の歴史において重要な転換点となり、特に庶民に仏教を広めた功績があります。彼の教えは「他力本願」を中心とし、阿弥陀仏の力によって救済されることを説きました。
■経歴
親鸞は、京都に生まれ、幼少期に出家しました。9歳の時、比叡山延暦寺に入り、天台宗の修行を始めましたが、20年にわたる修行生活に疑問を抱き、救いを見出せずにいました。そこで、法然(1133年-1212年)のもとを訪ね、法然が説く「専修念仏」の教えに強く感銘を受けました。「専修念仏」とは、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることによって救われるという教えです。
法然の弟子となった親鸞は、浄土宗の教えを広める活動を行いましたが、浄土宗は当時の宗教界からの批判を受け、1207年に法然と共に親鸞も流罪に処されます。親鸞は越後(現在の新潟県)に流されましたが、そこで結婚し、家族を持ちながら布教活動を続けました。この時期、親鸞は「愚禿(ぐとく)親鸞」と名乗り、自己を「愚かな禿(かむろ)」、つまり自らを卑下した姿勢で人々に寄り添いました。
■教え
親鸞の教えの中心にあるのは「他力本願」という概念です。これは、自己の修行や善行ではなく、阿弥陀仏の力(他力)によってのみ人々は救われるという考え方です。親鸞は人間の煩悩や弱さを強調し、どれほど努力しても自身の力で悟りを得ることはできないと説きました。そのため、すべてを阿弥陀仏に委ね、念仏を唱えることで救済されると信じることが大切だとしました。
また、親鸞は「悪人正機説」を唱えました。これは、悪行を犯した人こそが阿弥陀仏の救いの対象であるという考え方です。これは一見逆説的ですが、親鸞は「善人でさえも自力では救われないのだから、悪人であればなおさら他力に頼らざるを得ない」と考えました。この教えは、当時の仏教界における修行至上主義に対する挑戦でもあり、庶民にとって親しみやすいものでした。
■晩年と影響
親鸞はその後、京都に戻り、晩年には『教行信証』という著作を執筆しました。この書物は、親鸞の思想を体系的にまとめたものであり、浄土真宗の基本的な教義を明確にしています。
彼の教えは死後も広がり、浄土真宗として発展していきました。親鸞の教えは、修行や学問に特化した僧侶だけでなく、一般の人々にとっても理解しやすいものであり、日本の仏教に大きな影響を与えました。特に、「自力」ではなく「他力」による救済という教えは、個々の努力に重きを置かない柔軟な仏教観をもたらし、多くの人々の心を救うものとなりました。
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他力本願という言葉は、現代にとっては良い言葉ではないかもしれないですが、親鸞は人間の限界というものを悟ったのではないか。それは決して諦観によるものではなく、人間本来が持つ煩悩から脱することがいかに難易度が高いかを理解しているからこそ、生まれた言葉なのかなと自分は理解しています。
以下、親鸞の有名なフレーズと解説です。現代でも多くの人に読まれるには、それなりの理由があると思います。ぜひ、多くの方に読んで欲しいです。
1. 他力本願(たりきほんがん)
自己の力で悟りを得ようとする「自力」に対して、阿弥陀仏の力にすべてを委ねるという「他力」による救いを強調しています。人間の力は限界があるため、他力に頼ることで初めて救済が可能となるという考え方です。
2. 専修念仏(せんじゅねんぶつ)
親鸞は、ひたすらに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで救われると説きました。この念仏は、自らの功徳を積むためではなく、阿弥陀仏への感謝と信頼を表すものです。
3. 絶対他力(ぜったいたりき)
人間の行為や努力は救済に関しては無力であるとし、ただ阿弥陀仏の絶対的な力によってのみ救われるという考え方です。信仰はすべて他力に依存していると強調されます。
4. 信心(しんじん)
親鸞は「信心」を特に重視しました。これは、阿弥陀仏の救済を疑わず、すべてを委ねる心の姿勢のことです。信心こそが念仏の根本であり、形式的な修行よりも重要だとしました。
5. 煩悩具足(ぼんのうぐそく)
すべての人間は煩悩(欲望や迷い)に満ちているという考えです。親鸞は、この煩悩こそが人間の本質であり、だからこそ阿弥陀仏の救いに頼るしかないと説きました。
6. 悪人正機(あくにんしょうき)
「悪人こそが救いの対象である」という教えです。善人でさえも自力で救われることはないため、悪人が救われる可能性はむしろ大きいという逆説的な思想です。
7. 自然法爾(じねんほうに)
すべての出来事は、阿弥陀仏の本願によって自然に起こるものであり、人間の努力や意図ではコントロールできないという教えです。自らの意志や行為ではなく、阿弥陀仏の働きによってすべてが導かれるとしています。
これらの教えは、親鸞が強調した阿弥陀仏への全面的な依存と、人間の本質的な弱さを認めることの重要性を表しています。