祖父が地元の岡山の病院で享年92歳、なくなりました。
死因は肺炎でした(※コロナではありません。)
この一報を聞いてから今現時点までの自分の考えみたいなものは
書き留めておきたくなりました。
いずれは誰もが訪れる"死"というものを、どう考えるかは、
"生"をどう考えるかとイコールだと思っています。
生物学的には無神経な表現を使えば生命維持活動が機能しなくなった。
これに集約されるのですが、人間は豊かな感情を持っているので決して、それだけでは収まらないです。
おじいさんは会社経営をしていました。
小さい頃はすごい怖かったのですが、大学生時代にはなぜか話を聞くのが楽しくて、岡山に帰省してはおばあさんと3人でよく焼き肉を食べに行ったことを思い出す。
おじいさんの会話は経営の話ばかりだったのですが、それは四六時中、会社をどーすべきかを真剣に考えていたからだったと思う。
今の私は一塊のサラリーマンにすぎないですが、この思いを引き継いでいるからなのか、休みだろうがなんだろうが自分が与えられたミッションは必ず達成する!
そんな気概で働いているのは、おじいさんの影響を強く受けているからなのかもしれない。
また、おじいさんは小さい頃、戦時中もあり小学校しか行くことができなかったので本を貪り読んでいました。
当時、岡山の丸善地下の本屋さんで私が読みたい本を買ってくれたことをよく思い出す。
これも今の私の読書習慣に影響を与えていると思います。
つらつらと思い出話を書いているけど、結果論かもしれないが、私はおじいさんの影響を強く受けていることに感謝と誇りを感じます。
さきほど、"死"をどう捉えるかですが、私は可能な限りポジティブに捉えたいと思う。
今回、コロナ対応で会社がすべきことに追われているなかで、この訃報を聞いて仕事を止めて実家に即帰らねば、と思ったけど、実家の父母からコロナの状況からむしろ帰らなくていいと言われた。
私はこれをおじいさんの気遣いと私は捉えている。
おじいさん、コロナが落ち着けばお墓参りに帰るから安心して欲しい。
あと、おじいさんがやりたいこと、願っていたことがあるのであれば、私はその思いをきちんと汲んで、自分のリソースが許す限り、代わりに実現したいなと思う。
それは概ねわかっているが、あまりにもプライベートなので、ここで書くのは控えようと思う。
ただ、いつスタートしてもいいように準備は整えておこうと思う。
"死"はその人の思いを巡らせながら、その人への感謝と同時に
自分の"生"をどうするかを考える強いきっかけになると思う。
そして、私が考える"生"は、自分の人生を極力エンジョイする。そして、自分ができる範囲でほんの少し社会に貢献する。
私の死生観はこんな感じです。
葬儀に参列した社員や関係者は涙する人が多かったと母から聞いて、
言葉では語れない思いが巡ってきた。
きっと多くの人にいい影響を与えたんだと思う。
1人だけでもスゴイのに、もう十二分にスゴイじゃないかと思う。
最後に私の弔電が葬儀までに届いて本当に良かった。
前日夜に手続きをしても届いたe-denpoサービスに感謝しています。
おじいさん、お疲れ様でした。天国で安らかに休んでください。
あとは大丈夫。